ヴィーガンや動物愛護のことに対してを詳しくなるうちに、”偽善”に対して色々考えるいい機会になったお。
今日は「偽善者」をテーマに書いてみます。
善を押し付けてくる人が嫌い
まず始めに、私が大嫌いなのは、自分こそが正義だという人。善人だと思いこんでる人。
「自分はこれだけのことをあの人に親切にした」
こんなことを周りに言う人こそ、見返りがなかった場合に怒る気がする。
「アイツはろくにお礼もせず、非常識だ」
「これだけのことをしてやったのに、恩知らずだ」
「せっかくの善意を、裏切られた、騙された」
…みたいに。
薬と毒は表裏一体
大きな”善”ほど、猛毒を含んでいるように思うある意味、諸刃の剣。
薬の成分はが用法用量を間違えればときに毒になる。また毒から薬は開発される。つまり薬毒同源。
きっと自分の負担量が多いから、相手にも見返りを求めるんだと思う。
「自分が無理してまで尽くしたのにお礼がなかった」
「自分の欲求を犠牲にしてまで相手に捧げたのに何も変わらなかった」
これは薬で言うとこの、オーバードーズ状態w
自分にとって適切な用量を超えてるから、そのぶん毒に変換されちゃう。
同じお金でも、相手に1万円あげるのと100万円あげるのでは、全然規模が違うよね。
自分は仕事疲れでゆっくり過ごしたいのに、1時間買い物に付き合うのと、1日がかりで付き合うのにも差があるよね。
1万円を他人に渡したり、1時間を他人のために使って、お礼がなくともさほど痛手はない。
まあ、仕方ないかな、そんなときもあるよね。って。
無理のない偽善が健康的な心
人によって負担に感じる”善”の量は差があると思う。
その時の自分の環境や心境など、いろんな要素によっても変わってくるしね。
自分にとってストレスにならないぶんだけ、偽善をする。それが健全な良心であり、親切心だと私は思う。
お礼や見返りがなくて怒るぐらいなら、最初から断っておけばいい。
キツイ言い方をすると、自分のせい。自らストレスを引き起こしている。
他人を変えてあげようとして尽くしても、変わらないものは変わらない。
自分が動物愛護や地球環境のために肉食をやめても、食べ続ける人は食べ続ける。
“偽善”という行為をしたとき、「なんで自分は我慢してるのにアイツはやらないんだ」と怒るのはお門違いだと思う。
理想は、
「単純に自分自身がしたいからやった」
「無理のない範囲でこの良い行為をすることは自分に幸福感がある」
「たとえ見返りがなくとも、この対象(orこの人)には尽くしたいと感じた」
と、受動的でなく自主的に納得して行為をしたくなるかどうかが線引きのポイントとなる気がする。
人間はみな偽善者
この世に完全な善人なんて存在していないはず。しなくていい。
善人だと思った人は成長しないし、自分が正しいと思うと傲慢になる。
善人になろうとする偽善のほうがいい。
自分は偽善者だと思っているほうが、他者にも注意を払って生きていける。
見返りを期待せず、自分が善人になるためなんだと、いつも謙虚な気持ちでいられる。
本日のケツ論。
自分が行っている薬の処置( =善)には、毒の要素も含んでいるということ。
常にこれに注意していないと、傲慢になり怒りの感情に支配されてしまう可能性があるということを、意識していきたい。
だからといって、なにもやらなければ、なにも良い結果は起こらない。
たとえ偽善であったとしても、善は善。
相手からとって、嬉しく思ってくれたり、役立ったりすることには変わりない。
傲慢にならず、自分のためにも、相手のためにも、自身ができる範囲で偽善を行なっていきたいと思った今日この頃。
あとは自分のいろんなスキル・金銭や時間の余裕・心のゆとりキャパシティーも育てていきたいw
わたしゃまだ自分のことに詰め込んじゃっていつも必死だあw_(:3 」∠)_
では股\(^o^)/
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(関連してないやん!という意見は受けつけてましぇん)