お刺身やお寿司はそもそも料理なの?
伝統的な日本料理と西洋料理、両者では楽しみ方が違うように思う。例えば、お刺身やお寿司。
欧米人が最初にお刺身を見たたき、「こんなの料理と言えるの?」と思ったことでしょうw
火も加えていなければ、味付けもされていない、切っただけの原始的な食べ物に一見思えるかもしれない。
でも日本人の感覚からすれば「お刺身」という料理は、生のものだからこそ、味付けをしていないからこそ、「お刺身」なのだ。
焼いたり煮込んだり、他の食材を混ぜたり、スパイスを加えたりすれば、もう全く別の料理となってしまう。
お刺身は極端な例だけど、日本料理は基本的に素材そのものをシンプルな調理法で楽しむものが多い。
”手を加えない”ことも料理のうち
銀座にあるお寿司屋さんの大将が、「仕入れも料理のうち」と言っていた。
焼いたり煮たり、加工調理することだけが料理でなく、「美味しいときに美味しいものを仕入れられる目利き」も料理のうちだという考え方。
ほんとにそうだと思う。だって旬のものはあれこれ手を加えなくても、シンプルに切ったり焼いてほんのひとつまみのお塩をふりかけるだけで、抜群に美味しい。
豪華さや華やかさはないけど、素材の良さを引き立てている。
「あれこれ加えない」「不必要なものは不必要のままにする」という行為も、料理のうち。足し算でなく、引き算している。
食材を足した火入れしたりと加工する技術はあるのに、あえてここでしないということ。
尺八の用語
尺八の演奏技法の極意として昔から口伝えされてきた用語やことわざの1つに、「一音成仏」という言葉がある。
これは、一音で仏になる、または聴いた相手を仏の境地にするということ。尺八を一吹きして悟りを得た境地に至るという意味。
欧米人の精神性を持つ人からしたら、1つの音を鳴らししばらく響かせるということは、あまりにもシンプルで原始的に感じるかもしれない。
お刺身やお寿司のネタと同じく、ほとんど手を加えていない生の素材のままの状態、いわば音のローフードだからだ。
音楽も料理も思想は繋がっている
前回の雅楽の記事で、日本の楽器はそもそも俊敏に音を発することに不向きに作られていると書いた。
西洋の楽器のように、機能的に音を鳴らし、他楽器ともセッションしやすくする合理性を追求する姿勢とは真逆のもの。
手間がかかる楽器だからこそ、一音一音の重みを感じ、純粋に音の響きを味わうことができる。
その楽器の「個」を愛でる。素材を楽しむ。これは音楽だけでなく、料理の世界にも通じるものがあると思う。
日本人の精神性には、あれこれ足さなくても良さを感じ取れる鋭い感性が備わっている。足るを知る、つまりこれで十分に美味しいということ。
楽器を演奏する上だけでなく料理をする上でも、味付けをするだけでなく、素材の本来の味を十分に理解に理解した上で行うことが重要。
本日のケツ論。
日本音楽には、歴史的に「無音」という概念がある。
尺八に関わらず多くの楽器は、時に音が鳴っている時よりも音が鳴っていない時の方が多くのものを含んでいることがあり、その無音の音を大切にする事が重要である、という意味。
私は以前から「間」や「余白」について書いてるけど、そのことと同じ。形としては目視できない、見えないエネルギーの流れを感じるチカラのこと。
「捨てる」ということ、「断捨離する」ということ…巷でよく聞くワードは時代の声。世の中の流れはやっぱり何事も繋がっているんだなあと日々感じる。
歳を重ねるについて、悟りの境地というか、深いことまでを理解できるようになっていくから人生楽しいなあと思う今日この頃でありまっす♡
西洋思想と東洋思想、どちらの食文化が正しいとか正しくないとかじゃない。
自分に合うものをその時々で取り入れながら、もしくは融合させながら、自分に活かせばいいと思う。
次回は「融合」をテーマに書くよお^^
では股\(^o^)/
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