ヴィーガンの思想や昆虫食について詳しく記事を書くにあたって、「動物愛護」についてのモヤモヤが残っちゃった。
この際、なにがモヤモヤしているのか書いてスッキリしたいと思いまっす!
モヤっとした非言語の感情を言語化してアウトプットするのは大事!(過去記事参照)
- いのちの優劣をつけること
- キリスト教の欧米人と、神仏融合した価値観を持つ日本人
- ヒエラルキーの線引きなんてあいまい
- 殺すのはかわいそうだから食べないで、は偽善
- 今日紹介したのはごく一部の人たち
- 本日のケツ論。
いのちの優劣をつけること
動物愛護を掲げる人の中には、こう主張する人たちもいる。
「肉食なんて野蛮!動物を殺すなんてかわいそう」
「賢くて感情のあるイルカやクジラを日本人は食べないで!」
「痛みの感じない植物を食べるべき」
などなど。
動物を殺して食べるのは残酷だしかわいそうだから、植物を食べるという思想。
更に動物の中でも、感情や痛覚のある牛・豚・鳥・馬・イルカ・鯨などを殺生して食べるのは悪だという考え方。
なら魚はいいの?昆虫はいいの?それってなんか違うくない?
私が納得できないのは、やっぱりきっとキリスト教の世界観に馴染めないから。
キリスト教の欧米人と、神仏融合した価値観を持つ日本人
前回も書いたけど、キリスト教にとっては「知性あるもの」に魂が宿っているという考え方がセオリー。
それに対し、日本人にとって魂の基準は知性じゃない。人間や動物などだけでなく、山や川など、あらゆるものに魂は宿っていると考える。
こういった価値観は、私だけでなく、日本で生まれ育っているなら共通して持ち合わせている感性だと思う。
人間にも動物にも植物にも無生物にも…あらゆるものに魂(仏性)が宿っている、と。
言い換えると、「あらゆる命は等しく平等で差別するものではなく、仏の尊さがある」ということ。
日本人は、古来からの自然宗教と仏教思想が融合した価値観を、自然な形で生活に溶け込ませながら生活している。たとえみんな自称は「無宗教」だとしてもw
だから、生き物に対し序列や優劣をつけることに、無意識のうちに強く反感を覚えるんだと思う。
ヒエラルキーの線引きなんてあいまい
逆に、キリスト教圏の人たちに、潜在的に刷り込まれているもの。
それは「知識の高い生物こそが神に近い。だから人間は神に選ばれし特別な存在」というキリスト教の根本的な思想。
つまり、人間>動物>植物というヒエラルキーの構図。
極端に言うとその区分の中にも更に階級がある。
例えば人間の括りの中でも、自分達「白人」がトップ。次に「黒人」「黄色人種」などアフリカ人やアジア人。
動物の中でも、知性の高い犬・猫・イルカ・馬などの哺乳類の動物は上位。魚類や昆虫などは下位。
以前の記事でも触れたけど、そもそも「知性」なんて、人間の主観でしか判断していないと思う。
地球での生存戦略を知性と呼ぶならば、人間における知性なんて、ロジックでの人口統制や社会コミュニケーションなど、一部の要素でしかない。
動物や植物にとっての「知性」は全く別の尺度かもしれない。超音波や毒や発光や雌雄同体など、人間にはないスキルがたくさんある。
また人間に飼われることで犬や猫の数は増える一方だし、牛や豚など家畜動物の数だって人間よりはるかに多い。
ある意味生き抜く知性があるし、生存戦略として勝ってるよねw
まあそこまで極端に言わなくとも、生き物に対し序列を決めつけている人間はやっぱりおこがましいと感じる。
ここまでの区分の生き物は殺したらかわいそうだけど、ここから下の生き物は食べてもオッケー、みたいに。
自分以外の生き物の命を殺し、取り込みながら生きるのが、自然の営み。動物だって動物を食べている。
野生のネコだってネズミを食べるし、タカはウサギを食べる。食べなければ飢餓状態になり死が待っているだけ。
食物連鎖の頂点に立っている人間だけど、他の動物より偉いわけではない。他者の生命に頼り、助けられながら生きている。
「生き物を殺すのはヒドイ・野蛮・かわいそう」といった過激な動物愛護者の主張には疑問を感じる。
ちょっとひねくれた例を挙げると、植物でも、動物性由来の生き物を栄養源として摂取するものもある。
ほらw
これは、植物に分類していいの?ってまあ、植物なんだけど。
動物性の生き物を栄養源として成長する植物性の生き物。うーん、なんだか線引きもあいまい。
生命はグラデーション。みんな繋がっている。
それを勝手に分断して優劣をつける行為は、人間の傲慢だと感じるのは私だけじゃないはず。
殺すのはかわいそうだから食べないで、は偽善
動物愛護者の中にも、いろんなタイプの人たちがいる。
「イルカには知性があるからダメ。捕鯨も反対」
「魚は痛みを感じないからOK」
「牛を殺すのはかわいそうだから昆虫食にしよう」
「昆虫を含め動く生き物は全般的にダメ。植物のみ」
自分の中に正義があるのはいいことだし、自分の生活内だけで完結し実践するぶんにはなにも批判的な感情は湧かない。
ただ、それを他人にも強要する行為は単なる押し付けだと思う。
私は、肉も、魚も、野菜も、全部食べたい。
だってどれも美味しいもん。素直な欲求を満たしたいもんw
「かわいそう…私は罪な人間だ」と食べるんじゃなく、どうせなら「ありがとう、頂きます」と感謝しながら美味しく。
やっぱり、日本人の私にはキリスト教的マインドは馴染めない。偽善的だと感じる。
べつに偽善者でもいいじゃないかと思う。勝手に偽善行為をしてるのなら。
ただ、私たちに押し付けないで。
言いたいのは、「私が肉を食べることに対して批判しないでくれ!」ということw
今日紹介したのはごく一部の人たち
今日例に挙げた思想は、動物愛護を掲げる中でも一部の人のものだし、大抵の人は過激ではない。
誤解しないでほしいから、説明が何度もくどいけど説明させてください。
ヴィーガンを実践する理由には大きく分けて3つある。
簡単に言うと、
・地球環境保護のため(エンバイロメンタル・ヴィーガン)
・動物愛護のため(エシカル・ヴィーガン)
・健康志向のため(ダイエタリー・ヴィーガン)
その中でも、エシカル・ヴィーガンが動機のトップで、ヴィーガンのうち6割の人は動物のためにやっているそう。
行き過ぎた資本主義社会の中で犠牲になっている動物たちが数多くいるのは事実。
動物愛護をする人々の活動によって、多くの人へ警鐘を鳴らし動物たちの命や権利(アニマルライツ)を考えるための機会を与えてもらっていることを忘れてはいけない。
実際、人間の利益のためだけに発展しようとする市場の歯止めになっている場面もたくさんあると思う。
また欧米でも多様化や個人化が進んでいて、キリスト教の既成概念も政治・経済からどんどん遠ざかりつつある。
「宗教なき時代」の中で、柔軟にヴィーガンを取り入れている若者世代が多い。
本日のケツ論。
そして今日も私は美味しくお肉を頂くのであった。まる。
みなさまも自分なりの正解があると思うので、それはそれでよきってことで。
では股\(^o^)/
<関連記事はコチラ>
<関連商品はコチラ>
(関連してないやん!という意見は受けつけてましぇん)